元々、人は”悟り”の状態で生まれてくる。
この世に誕生する時は綺麗なもの、無垢な状態で生まれてくる。
赤ちゃんは”悟りの状態”だそうです。
ですが、成長するにつれ段々と自我が芽生え煩悩が生まれていく。
そして歳を経ると悟りが見えなくなってくる。
本来持っていた悟りが無くなっていく事で焦り、不安、恐怖、怒りの感情に襲われる。だから私達は必死になって”智慧”を求める。
智慧を増やす事で、人は悟りの境地に戻れるそうです。
心は智慧がある事によって綺麗になっていく。
山伏が修業をする意味もここにあります。
山は聖域、山頂が”悟り”とするならば一歩ずつ歩むのが悟りの道となる。
この”一歩ずつ”が修業となる。こうやって実際に体験する事に意味があるという事なので街中で偉そうな事ばかり言っている者は本来の悟りには辿り着かないそうです。
自ら修験道の世界に身を置いておられるご住職はこう言っていました。
『肉体的なしんどさは大変ではない、精神的な苦しみが一番つらい』
この言葉、本当にそうだなって思う。
肉体的な辛さは一時的なものです。
だけど精神的な苦しみは”悟り”を得るまで続きます。きっと生きてる限り一生。
ご住職曰く断食や滝行、瞑想、火渡りなどの肉体的な修業はいつかは終わりを迎える一時的なものなのでなんとも思わないと仰られていた。
『肉体的なしんどさは大変ではない、精神的な苦しみが一番つらい』
これは私達にも言える事ですね。
身体的な問題はわかりやすいけど、精神的な見えない部分は、”笑顔”だから大丈夫だろうなんて判断するのは大きな間違い。
どうぞ隠された部分に気づいてあげられる人であってほしい。
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